犯罪は記憶されて起こる

ある日私は、エントロピーとエンタルピー二つの概念の融合するこの世界を考えた。
きっかけは、罪を感じたとき、なぜ人間にこうもその不平等的な役割が、現在にいたりあるかである。始めは、エントロピーとフィボナッチの関係をネットで調べてからだ。まさかとは思ったが、人体とフィボナッチの関係も以前より明確に知ることができた。1:1.618という比率は、かなりの要注意なものになるだろう。古でものすごく尊ばれたものの、よき再来と祈る。
さて、自然界が人間のような生き物なしの状態をエンタルピー(整理されている、バランスがとれている)として、人間の存在をエントロピー(乱れている、バランスがいいと言えない)としたら、まず当たるのは、人間が文字を使うということではなかろうか。記憶に残る。風化してもなにかに必ず残っていく。
例えばアダムとイブの子どもアベルとカインにさらにこどもができたらどうだろう。アダムとイブにとって子孫に対して、第一次的喜びでない、孫という第二次的なそれも参考書もなにもない無知の状態で、どのようなものか。
恐らくは、それこそが国、土地を分けた争いの始まりにもなったのかもしれない。
とにかく誰にでも言えるのは、宇宙は、基本的エンタルピーの感覚で出来ていても、ウィトルウィウスダ・ヴィンチが発見した人体図は、きっと、なぜ地球が生まれ、なぜ人間が生まれ、という疑問に、いつか犯罪なき真のフィボナッチの性質を用いた世界が来ることで、解決しそうだ。それは百年も待つものではなさそうだしね。