宇宙の誕生

まず時間の定義だ。二つの双極された事象

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が並んだときに、それが、持続可能な1:1.618の対比のバランスのパーセンテージに基づいてまず時間の定義だ。二つの双極された自称が並んだときに、それが、持続可能な1:1.618の対比のバランスのパーセンテージに基づいて起こる現象。○と×におけるAIのループ現象が∞であることが証明。
僕は、黄金螺旋における、双極されたそれぞれ逆の力が働き、無限のちからが生まれ構築し
、それゆえに、内に内に対比されて、一つの支点に行き着く。綱引きでちからが釣り合ったときエネルギーが解放されるように、黄金螺旋にも、超高したエネルギーが一瞬ピンと張った糸のようになり、そこから、双極それぞれを、男M女Wとしたとき、子孫に繋がる相性で考えると図のようになっていく。超ひも理論の原理で、超震動を起こしたつまり、ものすごいエネルギーの粒子が出来上がり、超高したエネルギーが解放されるように相性をめぐって、どんどん違う粒子も作り出す。
支点からそれぞれの粒子に、始め誕生した並びの粒子からエネルギーが奪われる。更に対象ゆえに、安定した粒子は他の粒子より速く動く、対消滅と、対生成だ。一瞬でも超ミクロかしたら、他の粒子はバランスを崩す。それが対象性の崩れとも言える。
始めの粒子はエネルギーがカスカスの状態で更に支点との対象現象で、やがて小さな核のようなものができる。それが重力子だ。そして、対象性から、細胞が分裂するように、ものすごい勢いで増えていった、それがインフレーション。ただ、はじめに、原子を構成するシステムができていくはずだから、エネルギーを奪った粒子たちが、分裂していくカスカスの粒子に、引き寄せられながら、態勢をかえて、今の宇宙になっているのかもしれない。
フォトンは、その際に、もともと、エネルギーを奪った粒子のエネルギーととれるから、重力に引かれながら、支点との対象性から伸び縮みしたり、繋がったり切れたりして、今の状態の礎を築いたと思われる。質量が皆無に等しいのは、カスカスの粒子の分裂に巻き込まれ、ねってねってネリにねられてだと思う。
これらの、黄金長方形と、黄金比率と、黄金螺旋における、法則が認められたときは、どうか人間が、争いなどでなく、愛のために、世界がファミリーのようになるために存在してほしい!

力に支配された世界

人間は、幸福になりたいと思うのが常だ。
だけど、様々な歴史を振り返っても、武力につながることで豊かになれると言うことは、まず人間である上でないといっていい。
一時的な人間の感情は高ぶりがあれば冷めることもあることを覚えた方がいい。
見た目は大事なことだが、こだわりすぎると、理解の枠を越えてしまう。
それに、その場で100%の答えが出せるとは限らないのだから、焦ることもないはずだ。なのに、組織的なシステムがまだ、なっちゃいないのか、この国を模倣すれば武力から遠退き、平和で栄えると思えるものは何一つない。
それどころか、近年に国には失望させられることが多い。世界政府とはまた夢の夢なのか。
絶対権力とは、その人間はいずれ 、死を迎えるのだから意味なく思った方がいいのに。それこそ人間の悪魔的な部分に支配された世界、そんな感じと、未来を思う素材の人間の尊い部分がぶつかり合っているようだ。
例えば、平和で栄えるとはどこまでイメージができるか。問題はそこにある。人命の尊重は経済に多く広まってはいない気がする。保険や年金など、確かに人間を助ける形にはなっているが、大きな経済を見たとき、その経済に広く浸透するほど、人の命は、大事にされていない。大事にされているようで、心の奥に安らぎと呼べるのは一握り。
ちからとは、決して固定できない未知の存在。
ちからに、頼るのでなく、心を震わせる全ての人間に依存するのがいいのではないだろうか。

自由なのだと意識すること

人間は個々に生きているが、その生活において、自らの統合的な観念で自由を感じないもしくは意識できず、自分が持つ人間の欲求に過度の制御ないし、逆にそこに過度の意識をしてしまう場合、日常生活に、自分の時間が足りていない、それを感じさせてくれないプレッシャーがあり、自由なのだと感じない苦しみが、時によっては生まれることがある。
それは決してその人のせいではなく、24時間生きる環境のなかの時間配分の内容の調整に問題がある。人はそれぞれと言われても、社会というものは規則正しく、とうるさいものだ。要するに社会と関わる時間ないし、自分の自由行動の時間などの確立だ。労働していないといけないのではなく、労働とはいずれ自分に返ってくるまさにマネージメントのようなもので、どこからどこまでが遊び心で通じて、真剣さもどこまでが通じるのかはわからない。それこそ人それぞれと言われてもおかしくない。だから、一番重要なのはその人の意思のつよさであり、自分で考える自信だ。
それは、まず自分で自主的な生き方をすることが好きになること。負担になっていることは、しないのでなく、することで(例えばごみ捨てや部屋の掃除、家事など)軽減する。楽しみが見つかったらチャンス。ショッピングしたり、映画を見たり、外に行くようになれば、一番いい。そうして自由とは、感じられるようになるのかもしれない。おそらく自分が自由を欲しなくなったとき、また、それが自由だとわかった時点が、おそらくその人の始まりなのだと思う。

犯罪は記憶されて起こる

ある日私は、エントロピーとエンタルピー二つの概念の融合するこの世界を考えた。
きっかけは、罪を感じたとき、なぜ人間にこうもその不平等的な役割が、現在にいたりあるかである。始めは、エントロピーとフィボナッチの関係をネットで調べてからだ。まさかとは思ったが、人体とフィボナッチの関係も以前より明確に知ることができた。1:1.618という比率は、かなりの要注意なものになるだろう。古でものすごく尊ばれたものの、よき再来と祈る。
さて、自然界が人間のような生き物なしの状態をエンタルピー(整理されている、バランスがとれている)として、人間の存在をエントロピー(乱れている、バランスがいいと言えない)としたら、まず当たるのは、人間が文字を使うということではなかろうか。記憶に残る。風化してもなにかに必ず残っていく。
例えばアダムとイブの子どもアベルとカインにさらにこどもができたらどうだろう。アダムとイブにとって子孫に対して、第一次的喜びでない、孫という第二次的なそれも参考書もなにもない無知の状態で、どのようなものか。
恐らくは、それこそが国、土地を分けた争いの始まりにもなったのかもしれない。
とにかく誰にでも言えるのは、宇宙は、基本的エンタルピーの感覚で出来ていても、ウィトルウィウスダ・ヴィンチが発見した人体図は、きっと、なぜ地球が生まれ、なぜ人間が生まれ、という疑問に、いつか犯罪なき真のフィボナッチの性質を用いた世界が来ることで、解決しそうだ。それは百年も待つものではなさそうだしね。

愛し合うという意味

そこには、男女間の愛はもちろん貴重なものだが、自分が他人に必要されていることへの喜びも、愛のひとつとしてとって、尽力していくものが望ましく思う。貧富の差にしても、人間の能力の差にしても、それらを埋めるのはいつでも、人間の人格である。人格を個性と取りそこに経済潤滑をもたらそうとしているのはナンセンスだ。ただ、経済だけが豊かになるだけだろう。そもそも愛されていると言える人と人の立場が考え方が生き方が、経済の束縛から離れられたとき、それはもっともきれいなものであると思う。そのために人間は平等になろうとしているのではないか。人格を好きになり、人格を愛し、そういった生き方考え方の修練が今の時代一番必要なように思う。
確かに時には、笑ったり怒ったりふざけるのも人生だ。それは違うというのもまた人生だ。こうして言葉にしていけば、人が生きるというのはずいぶん自由だ、自由がある。やはり自由を高望みしたり、自由とは違うこと、例えて言うなら人のからだのこと、いじめ、差別、経済制裁、心の問題、現代には見直さなければこれ以上時間のたつのが無駄なだけなことが山積みにある 。
せっかく人間として生まれたのだ。皆、人格を高めて損はない時代こそが平和なのだ。

教育という土台

人間には三つ子の魂百までなど、個人に差は多少あっても、臨界期という(だいたい0~3才くらいまでの赤ちゃんに与えられる情報、また、覚えていく過程の情報が、その安定している精神状態かどうかである。)大事な時期から、男子女子との区別や自分が男あるいは女として確立していく自信、それと伴って共存していくことの確立への全体を通しての視野と行動性が大人につながっていくのである。
それは、現在考えられている教育方針でさえも、正しいですと言いきれない。何故なら、まず人間の脳は悲しいかな、量子力学というものの支配を受けざるを得ない。それは、コンピューターが、脳に比例するごとく、量子力学によって作られたからである。現在では、抗精神薬がその人間に必要かどうかAIによって判断される時代も来るというではないか。たしかに、精神合同科学は夢だったかもしれない。だが、本当にそこに満足して、人間は平等になれたと言えるのか?誰もがみな安心ということばを心から呟き、利潤に左右されない医術であることが、本当の人間の暮らしだと思ってならない。未完成の文明を、しょうがないで終える毎日で、満足するのはナンセンスだ。だから、働いている人の為にも、私はこれからも素粒子物理学を越えるような、発見に挑戦していく。無謀でもなんでもいい。心がある限り、心に希望を抱かせたいのは当たり前さ。そのためにこういったブログも書いている。
話はそれたが、とにかく、教育には、宇宙はパターンと比率でできている通りパターンと比率でできるはずだ。人間が平等になるために。ただ、オールフォアオール、すべての人間がすべての人間のために、力を会わせたときにやっとかなうことだろう。

滑らかであることと、尖っていること

人間には幾つかの感情の方向性がある。快と不快や、喜怒哀楽をたとえとして。
その感情に、加速とブレーキがある。加速することで、正確には(考えて)テンションをあげる。テンションが上がれば、大体の病的な鬱的な状態でないなら、こだわることにその執着が少なくなる。広く言えば、家事をしたり、スポーツをしたり、友達と電話をしたりすることでそのストレスから意識をそらすことができるかもしれない。
逆に、ではブレーキを過度に(考えて)テンションを下げる。テンションが下がればメリットとして冷静さを得られる、ほか集中力や想像力などだ。だか、無理矢理に不快を自ら選ぶことからの自虐的なテンションの下げ方は望ましくない。時には、人間なんだから発散することが必要だ。ストレスがたまって病気にかかるかもしれない恐れがある。
そして、加速とブレーキを使い分けることが、不快であるが集団の中で生きていく中で学ぶそして実行していく゛マナー゛というもの。多くは不快になることは、そのマナーと深く関わっていると言える。
生きていく上で、どうしても人がいるなか、嫌がることをしてしまうというのは、その失敗であり、マナー違反以外の何者でもない。失敗は成功のもととは、失敗を指している言葉の使い方が違う、ここでは失敗にたいして訂正した心をもつことを私は言いたい。その時にも不快な感じはするかもしれないが、やはり成長というものは快いだけではなりたたない。
また、今回の主題にした滑らかととがりだが、簡潔に言うと、心の加速とブレーキの使い方は人それぞれで、言葉の使い方が荒々しい方が、協調できる人と、その逆の人と。など、個人に与えられた頭脳と感覚はその人その人に尊重されたものであるべきもの。この世には自分はもっと滑らかに生きたいのに、周りの人間に付き合っていたら荒々しくなっている。そういう人がけっこういるのではと思う。
またその逆もあると思う。だが結局滑らかすぎてもストレスがたまって病気にかかるかもしれない。荒々しい尖り過ぎても誰かを傷つけてそれを過ちとも思わないかもしれない。
だから、一番いいと私が思うのは、母からもよく言われるが、にんげんは、最低限度のマナーさえわかっていたら大丈夫なのだと思う。