教育という土台

人間には三つ子の魂百までなど、個人に差は多少あっても、臨界期という(だいたい0~3才くらいまでの赤ちゃんに与えられる情報、また、覚えていく過程の情報が、その安定している精神状態かどうかである。)大事な時期から、男子女子との区別や自分が男あるいは女として確立していく自信、それと伴って共存していくことの確立への全体を通しての視野と行動性が大人につながっていくのである。
それは、現在考えられている教育方針でさえも、正しいですと言いきれない。何故なら、まず人間の脳は悲しいかな、量子力学というものの支配を受けざるを得ない。それは、コンピューターが、脳に比例するごとく、量子力学によって作られたからである。現在では、抗精神薬がその人間に必要かどうかAIによって判断される時代も来るというではないか。たしかに、精神合同科学は夢だったかもしれない。だが、本当にそこに満足して、人間は平等になれたと言えるのか?誰もがみな安心ということばを心から呟き、利潤に左右されない医術であることが、本当の人間の暮らしだと思ってならない。未完成の文明を、しょうがないで終える毎日で、満足するのはナンセンスだ。だから、働いている人の為にも、私はこれからも素粒子物理学を越えるような、発見に挑戦していく。無謀でもなんでもいい。心がある限り、心に希望を抱かせたいのは当たり前さ。そのためにこういったブログも書いている。
話はそれたが、とにかく、教育には、宇宙はパターンと比率でできている通りパターンと比率でできるはずだ。人間が平等になるために。ただ、オールフォアオール、すべての人間がすべての人間のために、力を会わせたときにやっとかなうことだろう。