滑らかであることと、尖っていること

人間には幾つかの感情の方向性がある。快と不快や、喜怒哀楽をたとえとして。
その感情に、加速とブレーキがある。加速することで、正確には(考えて)テンションをあげる。テンションが上がれば、大体の病的な鬱的な状態でないなら、こだわることにその執着が少なくなる。広く言えば、家事をしたり、スポーツをしたり、友達と電話をしたりすることでそのストレスから意識をそらすことができるかもしれない。
逆に、ではブレーキを過度に(考えて)テンションを下げる。テンションが下がればメリットとして冷静さを得られる、ほか集中力や想像力などだ。だか、無理矢理に不快を自ら選ぶことからの自虐的なテンションの下げ方は望ましくない。時には、人間なんだから発散することが必要だ。ストレスがたまって病気にかかるかもしれない恐れがある。
そして、加速とブレーキを使い分けることが、不快であるが集団の中で生きていく中で学ぶそして実行していく゛マナー゛というもの。多くは不快になることは、そのマナーと深く関わっていると言える。
生きていく上で、どうしても人がいるなか、嫌がることをしてしまうというのは、その失敗であり、マナー違反以外の何者でもない。失敗は成功のもととは、失敗を指している言葉の使い方が違う、ここでは失敗にたいして訂正した心をもつことを私は言いたい。その時にも不快な感じはするかもしれないが、やはり成長というものは快いだけではなりたたない。
また、今回の主題にした滑らかととがりだが、簡潔に言うと、心の加速とブレーキの使い方は人それぞれで、言葉の使い方が荒々しい方が、協調できる人と、その逆の人と。など、個人に与えられた頭脳と感覚はその人その人に尊重されたものであるべきもの。この世には自分はもっと滑らかに生きたいのに、周りの人間に付き合っていたら荒々しくなっている。そういう人がけっこういるのではと思う。
またその逆もあると思う。だが結局滑らかすぎてもストレスがたまって病気にかかるかもしれない。荒々しい尖り過ぎても誰かを傷つけてそれを過ちとも思わないかもしれない。
だから、一番いいと私が思うのは、母からもよく言われるが、にんげんは、最低限度のマナーさえわかっていたら大丈夫なのだと思う。